エッセイつぶやき日記

☆「おじさん二人、チェコのぶら旅」。書き始めました

友人の磯田和一君がこの八月、他界した。二人でチェコをぶらついた仲間だ。その旅が私の人生で一番楽しかった。


予定もない気ままな旅だったが、ここで新しい生き方に気付いた。「男の生き方、夢って何だろう」「異国の人は誰でも親切なのだ」という体験だった。


彼の死から四か月が過ぎた今、彼のためにもその「思い出の記」を書いてみたいと思った。書いていると、彼とまだ一緒に話しているような気分になる。そして、自分も磯田君のように、人に愛される人間になれそうな気がする。


そのエッセイを書き始めたので、ぜひ読んでください。そんな気持ちでこの年が終わろうとしている。皆さんも良いお年を。 (2014年12月30日)

☆後期高齢者になってみると・・・

後期高齢者になると、ほっとすることがある。電車の優先席に座っても、どこか楽な気持ちでいられる。街を歩いて、若者に追い抜かれていっても、イライラしなくなる。「もう歳だから」と言い訳ができる。


誕生日を機に、健康保険証も変わった。負担率は同じだが、役所の窓口が変わるらしい。歯医者に行くと、新たに書類を提出させられ、改めて後期高齢者だと自覚させられる。


ところが、町内の老人会に顔を出すと、事情が全く違う。70代は若造だ。ほとんどの方が80代、90代の方で、70代では居場所がない。
一体、後期高齢者という言葉にふさわしい年齢は何歳ぐらいなのだろう。あまり考えても、埒が明かないが、今の時代は70代では前期高齢者ぐらいに思える。皆さんはどう考えますか。


ともかく、僕だけでも前期高齢者の気持ちで、老け込まずに少し頑張ってみたいと思っている。(2014年12月15日)

☆皇居・乾通り公開に参加してみると・・・

12月5日、からりと晴れたので、皇居の一般開放に参加した。10時過ぎ、霞が関から桜田門をくぐると、すでに長い行列ができていた。でもさすが。受け入れ態勢がうまい。


まず、大きな四列に整理し、順番に進んでゆくシステムになっている。あまりイライラせずに、約一時間待ちで坂下門をくぐることができた。


皇居内に入ると、直ぐ宮内庁の前に出る。そこから800メートルほどの通りが乾通りだ。右手に内堀が見え、左手に緑が続き、左右に紅葉が見える。


「写真撮影で止まらないでください」とアナウンスがあるが、混雑はほどほどだ。見学には支障がない。ところが紅葉はすでに盛りを過ぎている。その上、ほぼ平坦な道で、立体感が今一だ。期待が大きすぎたのか、ややがっかりしたというのが、正直な感想だ。


乾門から北の丸公園にでると、急に人がまばらになり、清々しい。銀杏の黄葉も美しい。そして、武道館の前までやってくると、一本の大木があり、その黄葉が実に見事だ。


「これはすごい」と妻と足を止めて見上げていると、見知らぬ人が「こっちの方がずうっといいわね」、と声をかけてきた。思わず「そうそう」と相槌を打つと、隣の老夫婦も「紅葉は少しがっかりしましたね」と話しかけてきた。イベントは人が多すぎ、がっかりしたが、思わぬところで、皇居の晩秋を楽しめた。


写真=すこし盛りが過ぎてしまった皇居の紅葉。(2014年12月5日)

☆猫と添い寝はいかが?

ストレスがたまると、猫の隣で添い寝をすることが多い。眠そうな猫と見合って、勝手な独り言をいっていると、なぜか心がしずまる。僕はバカみたいな人間だ。


猫がご機嫌のときは、隣に横になっただけで、喉をゴロゴロ鳴らせながら僕の愚痴を聞いてくれる。この時が何とも幸せな気分だ。でも、こういう時は少ない。やや機嫌の良いときは、静かに目を開けたり閉じたりして、僕に付き合ってくれる。その顔がなんとも可愛いので、イライラする気持ちが少しずつ落ち着いて行く。猫のナポリ君との秘密の時間だ。


かと思えば、やや迷惑そうな時もある。その時は「にゃあ」と小さく欠伸をし、背伸びをした後、寝返りをうって、そっぽを向いてしまう。「邪魔しないでね」と言いたげだ。でも、逃げては行かない。ストレス仲間の共有時間だ。


だが、不機嫌な時には猫は付き合ってくれない。大きく何度も欠伸をし、「がおう」というような声を出して、こちらの顔色を観察しながら、間もなく、のそりのそりと新しい寝場所に逃げてゆく。猫が気ままなのか、僕が気ままなのか?
でも、こんな気まぐれ猫と添い寝をすると心が休まるのはなぜなのだろう。理由は分からない。僕って変なのかな?


猫に捨てられた時はどうするかって?そんな寂しいときに聴くのはショパン。ノクターンやバラードを聴いて泣きたい気分で心を癒す。少し気持ちが前向きな時には、ヨハンシュトラウスや陽気なオペレッタの名曲を聴き続ける。ワルツ、ポルカの曲を聴いているといつの間にか、うきうきし始める。時には、ダンスもできないのに、ウィーナーワルツを踊っている気分でスイングしたくなる。男の老人の一人スイング。それもいいじゃないですか。ラララ、ラララ、ラーラです。


もちろん、反省もします。「猫にも人格があるのだなあ」と。「猫にも、べったりしていたい時もあれば、離れていたい時もあるのだなあ」と。
*苦しんだヘルペス、一か月と2週間目、突然、痛みが消えました。
(2014年11月17日 小春日和の日)

☆こんな笑顔になれたらなあ

写真はオペラ歌手の足立さつきさん。青山でのコンサートを終えた時のファンへの笑顔の挨拶だ。

足立さんは妻の大好きな歌手で、ザルツブルグのニューイヤーコンサートに出演した時は、私たちもファンの方と一緒に追っかけをした方で、親しみのある方だ。


オペラ歌手は山あり、谷ありの日々のようで、足立さんも、羽田健太郎先生、団伊久磨先生に可愛がられ、どこでも輝いた日があった。ところが、両先生とも出会うと間もなく早逝されてしまい、テレビ出演、海外公演で華やいだ日は意外と短かった。


それでも努力を欠かさず這い上がってくると、今度はお母様にも急逝されてしまう不幸が重なった。でも、足立さんの乱れた姿を見せたことがない。
細やかな感情の理解力、表現力に優れている方だから、悲しさも、苦しさもでも、大きかっただろう。泣いて泣いて、泣きつくした夜も多かっただろう。だが、ファンの前で落ち込んでいる表情を見せたことがない。予定されたスケジュールを守り、努力を重ね、笑顔で接してくれる。僕の性格とは正反対だ。


「ぼくもあんな笑顔ができたらなあ、しっかり生きられたらなあ」と思いながら、僕にはそれができない。努力しても努力しても、空回りになってしまう。もう、後期高齢者になるというのに、何も変わっていない。性格って、直そうと思っても直らないものなのかなあ。
(2014年11月15日)

☆古代の秋田城・史跡公園で国司の姿になると・・・

秋田市の国民文化祭に招かれ、府中市の職員と「古代秋田に集った人々」に参加することになった。会場は、日本最北の古代城柵だった秋田城跡の歴史公園。その広さと、行き届いた遺跡整備に驚いた。私の仕事は、武蔵国府の遺跡PRと、イベント・ステージのトークの二つで、ステージでは古代府中と秋田の交流を紹介すると、会場から大きな拍手が起こり、久しぶりにスターになった。


この日、市のチームリーダーが、「見た目にも目立つ方が良い」というので、用意してくれた国司の衣装を身に着けるとこれが予想以上に大受けで、朝からカメラマンに追われる一日になった。


国司の衣装は、役職の官位によって色が違う。私の衣装は浅緑。少し明るいのを選んだが、官位では低い七位の衣装だ。県庁でいうと、知事クラスが五位なので、まあ局長クラスぐらいかな。この日は古代史ファンの注文に合わせてポーズをとることになった。


その上、府中市遺跡のマスコットキャラクター「ムサシカメ丸」君が大当たり。府中でよく出土する土器をモデルにしたキャラクターで、国民文化祭が初デビューという新米さんだが、単純なデザインが良かった。子供の好奇心を予想以上に集めて、イベント広場に姿を現すと、「目はどこ?鼻はどこ?」と、子供の行列ができた。これにはライバルの平城京の「せんとくん」、秋田の「秋麻呂くん」、新潟の「わし麻呂くん」も完敗。この日のために制作に励んだスタッフは大喜びの一日になった。


ちなみに、古代秋田城は大和朝廷最北端の城柵で、渤海国との外交上の拠点となったところ。立派な瓦葺きの築地は平城京、大宰府と同じ仕様になっている。それに他の遺跡にはない、水洗イレの復元遺跡もある。古代史に興味のある方は、一度秋田へどうぞ。
写真は秋田城東門での私と、マスコットキャラクター「ムサシカメ丸」君(茶)。(2014.10.13日)


☆ヘルペス闘病日記

9月29日、腹部に筋肉痛のような軽い痛みを感じた。翌日は背中にも軽い痛み。「水泳で頑張りすぎたかな」と思って気にもかけなかったが、3日目になると、チクチクという痛みに代わる。「もしかしたらヘルペスかな」と思ったが、発疹が見えずそのまま。


4日目になると腹部にポツポツという小さい発疹が見つかり、朝一番で、すぐ近くの内科医師へ。ヘルペスと診断され、帰宅と同時に抗ウィルス剤を飲み始める。この日までの痛みは、少し気になる程度で、日常業務には全く支障がない。ところが、5日目になると、胸部、背中の痛みが急にきつくなる。特に胸部の痛みが激しくなった。


6日目、前日より痛みが増し、足を引きずるような感じで、孫の運動会を見学したが、早々に帰宅。7日目になると、歩いて外出できない感じになる。ぷつぷつしていた患部は、赤くはれ上がり、熱を持ち始める。8日目、午後にどうしても出席しなければならない市の会議があり、何とか出席したが、帰宅後はダウン。


9日目は抗ウィルス剤が切れるので、ヘルペスに手馴れている皮膚科医へ行く。診断の結果は、「抗ウィルス薬を7日間飲み続け、患部も回復に向かっているので安心」とのこと。しかし、痛みは変わらないので、「この痛みは何時まで続くのか」と尋ねると、「70歳を過ぎているし、個人差があるので、まだ、当分その痛みが続くかもしれません」とあっさり言われ、「その後、神経痛になりにくいビタミン剤2週間分」を処方されて帰宅する。


10日目は、午前中、休むことのできない講義があり、代々木に足を運んだが、帰宅後はダウン。11日目は、予定をキャンセルして休養するが痛みが変わらず、きつい日々となる。


12日目、秋田の国民文化祭出席のため、足を引きずり、新幹線で秋田へ。ホテルから一歩も出ずにその日を過ごす。12日目は、朝からシンポジューム、そして夜は交流会。この日の午後から、痛みが少しやわらぎ、歩くときに足を引きずらなくてもよくなる。ホテルの部屋に戻り、患部を見ると,腫れも引き始めてきた感じになる。


13日目、交流イベントの出演のため、秋田城へ。武蔵国府と秋田城の交流、遺跡保存の紹介などをしたが、気が紛れたこともあり、痛みをあまり意識せずに過ごせる。帰りの新幹線でも、かなり楽になってきた。


14日目、出張の疲れか、また、痛みがぶり返してきたが、以前のように、激しい痛みはない。動くと患部に痛みが走るが、雑用はできるようになる。患部の赤味も7割程度消える。だが、15日以降も症状が変わらない。というより、寒さを感じると痛みが増す。急ぎ、腹巻を買い求めると、かなり楽になる。でも、歩くたびに胸部に響く痛みは続く。20日目現在も同じ症状。痛みが消えるのは、入浴中のみ。これから先は辛い冬になりそう。ヘルペスにはご注意を!

☆初めてカップを頂いて

8月、珍事が起きた。全国から応募した11万点をこえる高野山の競書大会に入賞したというのだ。書道歴は長いが、実力は下の下。僅か100人余の上位入賞など思ってもみなかった。


何が何だかわからず、指定の時間に高野山に行くと、学生の招待者が多いのに驚いた。それもそのはず、若い人を育てるのが目的の競書大会で、一般の入賞者は41名のみ。高野山に着くと、小中高校生と保護者の仲間に入れてもらって、まずは奥の院を見学させていただいた。このコースは歴史を感じる墓の多さと、そのスケールにびっくりするばかりで、遺骨など残っていないはずの織田信長の墓まであるのも、何か不思議な感じがした。


翌日は表彰式。会場はもちろん金剛峰寺。入賞作品の展示会場に足を運んだ後、すぐに式典になる。式次第の挨拶が終わると、文部科学大臣賞の次に私たちの金剛峰寺賞だ。グループごとに名前を呼ばれ、表彰台に上がるのだが、僕みたいな高齢者が受賞するのはなんだか照れくさいような、申し訳ないような気分だ。


それはともかく、副賞の包みがかなり大きく、重いのに驚いた。中身を聞くのも恥ずかしく、東京に帰宅してから開けてみると、写真のようなカップ。カップなど縁のない私にとっては初めてのことでビックリしたが、終活の準備で、本やらゴルフクラブなどを整理し始め出した時だけに複雑な感じがしないでもない。妻に「素直に喜びなさい」と一括されて、孫の写真と一緒に棚に飾ることになった。そのカップ効果か、その後、筆を持つ時間が多くなったこの頃です。
写真=受賞のカップと織田信長の墓。


☆和歌山・田辺の闘雞(とうけい)神社を訪ねてみたら…

突然の用事で、熊野古道の入り口、紀伊田辺で一泊することになった。翌朝、用事の前に、一度訪ねてみたい闘神社を訪ねてみた。明治の博物学者・南方熊楠が自然保護運動に立ち上がった舞台の神社だ。


夏の例大祭の幡が立ち並んだ道から、境内に入ると、右手に本殿があり、その奥が、熊楠の研究現場となった鎮守の杜だ。今も数百年前の姿そのままに、社殿と共に大切に保存されている。


受付で、熊楠の事を訪ねると、祭りの準備で汗を流していた宮司・長澤好晃さんがわざわざ説明に来てくれた。


「明治39年(1906)、神社合祀令の出る前は、幡が立ち並んでいる通りは、大楠の並木でした。ところが、合祀令後、困窮した神社はその樟を売り払い、社殿の保存に奔走せねばならなかったそうです。そんな時、宮司の四女を妻に迎えていた熊楠先生が鎮守の森の保護に立ち上がり、奥様は夫・熊楠と神社の間に立ち、いろいろ苦労なされたようです」


神社合祀令は全国でトラブルを起こしながら、神社の3割強を取り壊すことになった。この時代の流れの中で、自然保護に立ち上がった熊楠は頑固だった。神社の立場も顧みず、樟の売却を認めず、当時は、神社も氏子も大変戸惑ったとのことだった。官憲とのトラブルも絶えなかった。ところがこの一徹な情念が、時の政府を動かし、神社合祀令も修正されて、結果として神社の保存が出来るようになったのだと言う。


熊楠は田辺から上京し、東大予備門で正岡子規、秋山真之、夏目漱石らと一緒に学んだが、研究者としての情念と正義感は、狂人あつかいされるところがあった。その生き方は激しく、常に本物を求め続け、妥協を一切許さない純粋さがあった。そんな人間像が、いつもふらふらしている自分には羨ましくてならない。


熊楠の生家は神社からほど近い武家屋敷の屋並みの中に、南方熊楠顕彰館として保存されていた。当日は、時間がなく開館の時間まで待てず、外観を見るだけで終わってしまった。次回は、顕彰館で熊楠の生き方をふり返りながら、自分の生き方も考えてみたいと思った。


ちなみに、闘神社は5世紀の頃、熊野権現の田辺の宮としたのが始まりで、壇ノ浦の戦いの時、赤鶏を平家、白鶏を源氏と見立てて合せると、赤鶏が逃げたので、熊野水軍は源氏に味方し、義経を勝利に導いた神社として有名だ。<7月18日朝>

☆えっ!輪投げ?

近所の人たちと、輪投げを始めた。これが、実に面白い。簡単に見えたゲームだが、なかなか奥が深い。慣れた人は、1ゲーム、9個の輪を投げて5個前後をピンに入れて、30点前後になるのだが、初心者は思うようにならない。ベテランのリーダの話では、初心者はまず、中央のピン、5点ピンに輪を集めるようにするのだと言うのだが、これが難しい。一投々々がばらついてしまい、ゲームの途中で自信を失うと0点となることもしばしばだ。


ゲームは5ゲーム、2回の合計点で競う。安定したベテランの方でも、ゲームごとに波がある。そのたびに、ため息や拍手が続き、結構、ハラハラしながら2時間ほどを楽しむ事が出来る。その間、話もほどよく弾み、新人もすぐ友達になれる。


会場は私の家から1~2分の八幡神社の杜なので便利だ。夏でも神社の木陰で涼しい。男性のSさんに「輪投げを始めたきっかけ」を聞くと、「輪投げは子供の遊び心があるでしょう。それにこの会場、神社のどんぐりの林の中にいると、子供の時の気分になりますね」という。私も同じだ。宮城の田舎で遊んだ鎮守の杜が懐かしいし、輪投げのゲームはなぜか無邪気になれる。お互い、戦後の貧しさの中での山を駆け回った話にも花が咲く。


ところが、女性の仲間との話はぎこちない。子供のころの遊びも違うし、今の生き方もまるで違う。輪投げ以外の話題は、何かかみ合わない。会社勤めだった男は、買い物の話題、身近な地元の話題は全く分からない。結局「男の方はねえ・・・」ということで、話が終わってしまう。
といっても隣組の仲間はこれからお世話になる女性たち。ここは焦らず、時間をかけて、女性に嫌われない男老人になろうと、腹を決めてみた。(6月)

☆ヤンキー君、頑張って!

JR高尾駅から小渕沢行の列車に乗ると、自称ヤンキーのS君と席が一緒になった。ヤンキー君は諏訪にバイクを受け取りに行くので、初めて中央線に乗ったのだと言う。ろくに挨拶も出来ず、話もボソボソしている青年で、初めは馴染めなかったが、なぜか話が途切れない。不思議な会話で、甲府までの1時間半を付き合うことになった。


彼の話は僕にとっては全く知らない世界だ。スマホで愛用のバイクの写真を見せてもらうと、普通のバイクだ。だが、それが50万円もするスポーツバイクなのだと言う。値段に驚き、輸入車かと聞くと、ヤマハだという。「何で、そんな高いの」と聞いて、またまた驚いた。


そのバイクで時速200キロのツーリングをしているのだと言う。時速100キロぐらいだと走りが安定せず、そうなるのだと言う。道路が混雑していなければ、東京から名古屋までは1時間半ぐらいで走れてしまうそうだ。


そんな行為が違法なことは百も承知しているが止められないという。生きている実感がするのだという。だが、一番怖いのは白バイだそうだ。白バイの運転手の腕はヤンキー君より数段上で、発見されたらお終いだと言う。だから、何時も白バイに見つからない工夫をして、ツーリングを楽しんでいるのだそうだ。


こんな青年なのに、話していると何か安心感がある。安心感というより、何か期待が持てる若さを感じるのだ。それって、なんだろう。


興味がわいて聞き込んでゆくと、エンジンが大好きな青年なのだ。勉強が苦手で、あまりレベルが高くない大学に進んだが、工学部の授業が面白く、働くことにも不安を持っていないという。エンジンが好きだから、社会に出ても何とかなるだろう、と楽観的だ。


楽観的な人生、それは素晴らしいことだ。定年になるまで、好きな世界を持てずにオドオド生きてきた自分には、反省をさせられるようなひと時だった。ヤンキー君、頑張って!


2014年5月17日(写真はヤンキー君愛用のバイク)

☆谷村新司、井上陽水のコンサート

この四月、初めてフォーク・シンガーのコンサートに出かけた。三日は谷村新司のサクラ・コンサート。当日は生憎の悪天候の日だったが、谷村ファンが振るサクラ色のペンライトで会場は盛り上がった。


この種の音楽を聴く機会が少なかった私には、知らない曲が続いた。だが、退屈はしない。モーツアルトとは違った心地よさがある。つぶやくような、語りかけるような谷村節には、優しい人間味が伝わってきた。


その日の舞台は、サクラ吹雪の季節感をテーマにしていた。練りに練った進行台本を作ったのか、ある時は、甘い魅惑の物語を語るように歌い、ある時は、谷村のロマンの世界を歌い上げてゆく。そのたびに、ペンライトを振る女性客と谷村が一つになってゆくのだ。


その一週間後の陽水のコンサートは男性客も多く、谷村とは違った身近さがあった。陽水は気取らずに舞台に立つと、かつてのミリオンアルバム、「氷の世界」を一気に歌い切って、会場を盛り上げた。フォーク音痴の僕には、「心もよう」以外、知らない曲ばかりだったが、陽水の世界もこれまた素晴らしい。


「氷の世界」がヒットして四十年。青春時代に陽水ファンになった人たちには、陽水の恋の歌に自身の思い出が重なるのだろう。前の席の男性の手拍子にはそんな雰囲気を感じた。


トークもまた味がある。短いが、何か正直なユーモアに吹き出してしまう。谷村の女性に尊敬されるトークとは違って、どこか男っぽくて、照れ屋の男の苦笑いがある。それがたまらなく可愛い。そして、歌のメロディーが澄みきっている。


後半は、僕も知っている曲が続いたが、僕のようなフォーク音痴でも知っている曲がこんなにも多いのかと驚いた。立ち上がって踊りたくなる曲があるかと思えば、セレナーデは目をつぶって聴いた。それが陽水の魅力かもしれない。


今まで知らなかった、フォークの世界。今回のコンサートで、一流の人には、凡人の心を魅了してしまう、カリスマ性というか、人間のエネルギーがあるのだなあ、と思った日々でした。

☆大雪の道で出合った若者たち

昨日からの雪が記録的な積雪になった。わが家の辺りでも30数センチとなり、雪かきもままならない。午後、どうしても外出せねばならず、とんだ苦労をした。


長靴で歩けるのは、車が踏みしめた二本のタイヤ跡の道だけ。そろりそろり歩いて行くと、5分ほどしたところで、一台の乗用車と出合った。逃げ場がない。困っていると、車から若い運転手が下りて来て、ニコニコしながら逃げ場を作ってくれた。今まで出合ったことがない、若者の優しい眼差しだ。


路地から少し広い道に出ると、何人かの人に出合った。多くは若い人たちだったが、誰もが親切にしてくれる。その場、その場の状況に合った譲り合いと、気遣いをしてくれるのだ。これには驚いた。今まで知らなかった若者像だ。


用事がすんで、家路について、また驚いた。家の周りで、若者が雪かきを始めているのだ。日ごろ挨拶もしてくれない隣組の若者たちが、わが家の前まで除雪してくれているのだ。ぺこんと頭を下げて礼を言うと、「お兄ちゃんが半分やってくれたから」という。
大雪は日ごろ気付かなかった、若者たちの優しさに気付いた日でもあった。
(2014年2月15日・写真は雪に咲く白梅)

☆注目!音楽監督の角岳史さん

久しぶりに「愉快で質の高いオペレッタ」に出合った。東京オペレッタ劇場のボッカッチョだ。私もかなりオペレッタに関わったが、脚本と演出の難しさに苦労した。原作に忠実すぎても、作品の素晴らしさが伝わらないし、書き直すと、どこかドタバタしてしまう。「お洒落な遊び心」はともかく難しい。


そんなことで、大正時代、浅草でボッカッチョが大ヒットしたことを思い続けたことがある。その頃を知る神田の古老に聞くと、「ベアトリ姉ちゃんの人気は大変でしたよ。蕎麦屋の配達まで大声で歌っていましたからね」という話だった。


その話を聞いてから約20年、角岳史さんのボッカッチョを観て、ハッとした。「ボッカッチョ」ってこんなに面白いのだと。


オペレッタは、歌、芝居、踊り、歌手の色っぽさがそろわないと盛り上がらない。今回は主役ボッカッチョ役の大山大輔さんが光っていた。流行作家役の色っぽさがあって、歌が良い。脇役の色男・武井基冶さんもハンサムで、間抜け親父の滝山久志さんのトリオがその役をこなしていた。


女性役の二人はこれからという感じもしたが、ともかく言葉運びが面白い。ピアノ・ヴァイオリンの音色も良く、あまり観ることができない質の良いオペレッタだった。終演後、会場から「面白かった」「こんなに面白いとは思わなかった」という声があちこちから聞こえたのも久しぶりだ。
音楽監督・角岳史さん、歌手・大山大輔さんはこれから注目してみたい若手だと思った。(2014年2月22日・内幸町ホール公演を観終えて)

☆東北の地方紙を覗いてみると

日本記者クラブのロビーに元日の全国紙が展示されていた。何気なく東北の各紙一面記事に目を通すと、その見出しに心引きつけられる。震災後の各紙のテーマが明確なのだ。言い換えれば、地方では各県の生活テーマがはっきりしているのだろう。
これに対し東京地区の全国紙には、生活に密着した見出しが無い。国レベルの経済・政治・外交の課題が生活テーマになっているのだ。普段は何とも思っていなかったが、本当にそれで良いのだろうか。大都会・東京にも東京というローカルなテーマがあっても良いのではないかと。
ところが、東京に住む人間には、ローカルな話題がないし、地域に密着した生活時間が少ない。自分が働く企業や都心のきらびやかなニュースが日常の話題になっている。でも、これでよいのだろうか。
東京の文化、東京のローカル・ニュースに鈍感な生き方を続けていると、いつの間にか東京砂漠の人間になってゆくのではと不安もある。かつて東京新聞が面白かった時代、下町文化がキラキラしていた時代が懐かしく思える日だった。(平成26年1月30日)

☆「クザリアーナの翼」を観たら‥‥

野次馬根性もあって、赤坂に足を運んだ。話題の岸谷五郎作・演出のミュージカルだが、会場の熱気にまず驚いた。観客はほぼ女性。満員の会場は若い女性と50代がらみのオバサンで埋まっている。


話の筋は単純。奴隷、平民、軍隊、皇帝の身分社会を打ち破り、新しい秩序を手にするコミカルな芝居とダンスだが、今までのミュージカルの型を破ったお笑いとパワフルなダンスには脱帽した。会場は笑いと拍手の渦だったし、3時間の公演が私にも短く感じたのだから、良い出し物なのだろう。


ところが、70代の私には何か一つワクワクできず、心に残る歌もなかったし、次の公演を予約してみたいとも思わなかった。
多分それは、新しいものを素直に受け入れられない男の感性の経年劣化なのだろ。老人には少し寂しい夜の家路になった。(1月28日)

☆夢はウィーンへ

白寿ホールのロビーがお祝いと感謝の声で渦巻いた。第2回ウィーン・オペレッタコンクール入選者・入賞者発表コンサートが想像もしなかった大好評だったのだ。

 

その予感は、第一部アマチュア部門の発表が終わった時から始まった。アマチュア部門ということで、あまり期待していなかった人たちが、「いやあ、すごいと」と感動の声を連発し始めたのだ。

 

そ して第二部。プロフェッショナル部門のコンサートが始まると、会場はある種の緊迫した静けさに包まれた。コンクール入選・入賞発表会ならではの雰囲気だ。 トップバッターの中神奈穂子さんが、ウィーンでしか聞けないおしゃれな曲を披露すると会場はどよめいた。次々と拍手、拍手の歌が続き、トリの推屋瞳さんが レハールの「ひばりの鳴く所」より「広い野原を通って」を歌い終わると、場内は春のウィーンのような明るさになった。

 

予選、本選に立ち会ってきた私も驚いた。コンクールの時と違って、声が伸び伸びとして、高音に無理がなく、張がある。歌手の思いが飛んでくるようだ。

 

打ち上げの席に同席すると、出演者の皆さんが「今日は最高。ホールが良くて、ピアノの伴奏が良くて、お客さんが良くて」と眼をうるませている。まだ無名の歌手たちも、気持ちが乗ると、こんなにまで素晴らしい歌声になるのかと驚いた。

実行委員長の黒田晋也さん(二期会)の思いは「夢はウィーンへ」。私も、今日出演された若い仲間から、ウィーンで活躍する日を思いながら家路についた。何時になく心晴れやかな一日になった。        (平成26年1月18日)

☆氏神参り

元日は朝一番に初詣をするのがここ数年続いている。近くの氏神に昨年一年の感謝を報告し、今年の心の内のお願いをするのが私流の初詣で、人影のない静まり返った杜の中で拝礼を済ませる。この時から私の一年が始まる。
信仰心が無いのに、元日だけはこんな気持ちになるのは私だけだろうか。日本人と神社には何か不思議な精神構造があるのかもしれない。
年末、靖国神社を参拝して物議を引き起こした安倍総理も、外国人には説明ができない日本人的な動機が強くあったのかもしれない。しかし、A級戦犯が合祀されている靖国を国会議員や総理が参拝するのは不思議でならない。
東京裁判の結果にはいろいろな考えがあるにしても、それは戦後秩序の出発点である。これを守らなければならないのは国際人の最低限のルールなのだろう。日本ではそこが大きな議論にならないのは不思議でならない。かつて、官房長官だった梶山静六氏がこのことを心配されていたのが心に残っている。今年は世界から誤解されない靖国問題を議論する年になってほしいものだ。(平成26年1月1日)

写真=早朝の氏神・府中八幡神社

バカな上司、利口な上司<修行編・社長編>

修行編

☆初めて出会った「理想の上司」


「何時か理想の上司に出会えたら・・・」。修行時代には、こんな夢を勝手に見るものです。「理想の上司なんかいるものか」と思いながらも、落ち込んでしまった時、自分の努力が誰にも認められなかった時、すがる気持ちで勝手な夢を描いてしまう時があるものです。


社内報編集を手掛けて5年目だったでしょうか。ようやく主任という肩書がついたころ、編集という孤独な仕事に言い知れぬ孤独感に襲われていました。そんな時に、ラッキーにも私は理想の上司に出会えたのです。


その方は、日本航空の社内報「おおぞら」の編集責任者、戸田大八郎さんという方でした。笑顔を絶やさない清潔な方で、第一印象は優しい編集者仲間という大先輩でした。
出会いは日経連主催の社内報関係者のパーティーの席でした。戸田さんは初対面の私に、「今野さんには、一度お会いしたいと思っておりました」と言葉をかけて下さったのです。
私はその言葉に驚き、喜んで名刺交換をすると、調査役という肩書の管理職の方でしたが、なぜか私の担当していた社内報の事を実によく知っているのです。実は全国社内報コンクールの審査委員長の方だったのです。


「今野さんは、編集の態度が素晴らしい。これから大きく成長します。一緒に勉強しませんか」というのです。紹介された勉強仲間は、「おおぞら」編集部の藤山政子さんという女性でした。口数の少ない信念の人という感じでしたが、どこか優しさある堅実な方でした。


この出会いを機に、私は社内報が刷り上がるたびに日本航空を訪ねては編集のイロハを学びました。実務は藤山さんに、編集姿勢は戸田さんに学びましたが、調査役の最初の言葉は今でも忘れられません。


「編集者は真実を書こうとしてはいけません。大事なのは事実です。常に新鮮な事実、ニュースを見つけ出すのです。その社内ニュースを報道することで、読者がそれぞれの立場で、会社の明日への役割が予感できる編集に心がけるのが、私たちの使命なのです」


戸田さんのアドバイスは、言葉は柔らかでしたが、取材態度に対する厳しさは想像を超えるものがありました。「本社の目が届かない辛い仕事を取材していますか。会社の考えを受け止める社員の本音を取材していますか。社内報は社長にとっても、第一線の社員にとっても明日の経営を考える情報素材でなければならないのです」というのです。


それまで「仕事の使命」など考えてみたことの無かった私には、天の声のような衝撃でした。
会社の仕事には、それぞれの仕事に使命があるのだ。そんな基本を教えていただいた私は、以後、仕事の楽しさを見失うことが少なくなりました。今振り返ると、戸田さんは、私にとっての最初の理想の上司だったのです。

(2013.6.1更新)

☆バカな主任、利口な係長


サラリーマン修業時代のスタート、アルバイト時代の「バカな主任と利口な係長」の話です。
大学四年の10月、足立区役所から一通の速達が届いた。私に、選挙の仕事を手伝ってほしいという協力依頼だった。私は都庁内定者になっていたので、本庁配属前のウオーミングアップになることもあって、こころよく引き受けた。


仕事は衆議院選挙の準備。配属先は経済課統計係が一時変身する選挙管理委員会の事務局で、投票所の準備から、ポスター掲示板づくり、投票用紙の枚数確認などをアルバイト21名を使ってやる力仕事だ。


この仕事の責任者は定年間近の係長で、この人は学歴がなく、普段は何も口出しをしなかった。その代わりに係長以上に口うるさい人がいた。定期採用の高校卒の主任で、係は妙な組織運営になっていた。


小さな係には、そろばん達者な統計担当の人たち三人の他に、もう一人の定期採用者がいた。中学卒の若い女性職員で、主任や係長の文書を整理しながら謄写版の筆耕の仕事を受け持っていた。


配属後の2,3日は注意深くこれらの人の仕事ぶりを見ていると、職歴が浅く、学歴が一番低い女性係員が主任以上に頼りにされているようだったが、身分の関係で日々の仕事は下働きをするだけだった。


そんな中での私の仕事とはいうと、とんでもない仕事があった。当時はまだ幅を効かせていた選挙ゴロの対応で、いつの間にか係にへばりつき、私の仕事にもあれこれ口を出してきた。


その中でも、当時、異端児だった赤尾敏候補の取り巻きの人たちの対応が厄介だった。次々と難題を持ちかけてくるので、係は緊張感が張りつめた暗い日々となっていった。ところが、日ごろ口うるさい主任はこの件に対しては何も注意もしないし、係長は「ほう、ほう」と聞き流すばかりで、難しい話には「私は高校も大学も出ていないので」と話をはぐらすばかりだ。


選挙ゴロの話は巧みで、現場の仕事に役に立つこともあったが、おおむねダーティーな話ばかりだった。時には帰宅途上の道で待ち伏せをし、しつっこくまとわりついた。初めはこの知能犯的脅しに堪えていたが、一ヵ月も続くと、とうとう堪忍袋が切れた。
待ち伏せされた暗がりの道で、男の胸ぐらを掴み、「堅気を待ち伏せしたりするとどうなるか、その道のプロなら分かっているだろうな」と言葉を吐き捨て、警察と戦う腹があるのかどうか追及して、その男と別れた。


この私の反抗は、思いのほか効果があった。翌日の午後、その男は係に顔を出し、「学生アルバイトにしては筋を通してくれるじゃないか。今回は負けたよ」と私に握手を求めてきた。私は半分驚き、半分感動して「お役目ご苦労さん、正々堂々の健闘をお祈りします」と握り返すと、そのゴロは初めて男くさい好意の眼差しを浮かべてくれた。


一件落着と胸をなで下したその夜、その男から残業中のアルバイト全員に天丼の夜食が差し入れられた。一瞬戸惑ったが、私はその男の好意を信じ、素直に受け取り、皆と一緒に気分よくぺろり平らげた。


ところがその翌朝、役所に顔を出すと主任から大クレームがついた。報告がなかったというのだ。私ははっと気が付いて素直に謝ったが、それからが大変だった。ああどうしてくれるんだ、という苦言のような愚痴が取り留めもなく続いて、敵意の眼差しを私に投げつけるのだった。


我慢をしかねた私が「主任」と言いかけたその時だった。係長が乗り出してきて、「昨日はご苦労さん。先方に天丼のお礼の電話を入れたら、“久々に気分の良い若造に会えた”、と言っていましたよ」と私に頭を下げてくれた。


私は慌てて係長に頭を下げると、年配のそろばん達者のBさんと中学卒の女性職員が立ち上がって、「係長さん、今野さん、ご苦労さんでした」と声をかけてくれ、他の人たちも目礼をしてくれた。
係の人たちは、全員が主任嫌いの係長の隠れファンだったのだ。

(2013.5.1更新)

☆配属先で最初に出会った先輩の名言


現場実習が終わって、最初の配属先は広報課だった。実習時代、ドジを続けた私は、同期ではただ一人、定員外という行儀見習いのような仮配属だった。正式な担当の仕事はなく、隣の先輩の仕事を一部手伝うというか、居候のような日々となった。
だが、ここで出会った先輩が大当りだった。思ったことはズケズケ言うが、なぜか心を傷つけない、明るい人だ。


「お前に仕事を教えると、おれが異動になるんだよな」と大声で不満を言いながら、社内報、社外紙の編集の仕事を与えて頂き、ビシビシと的確な実務指導をしてくださった。
「今野君は大学出って本当か?漢字は誤字だらけだし、校正はひどすぎるよ。これじゃ、東大での課長にペケマークが付けられちゃうよ」と手直しをしてくれ、仕事の段取りを一から十まで教えてくれた。


ところが、先輩は課長とはウマが合わないところあるらしい。課長は部下との約束をムニャムニャ云って反故にする悪いとこがあるというのだ。そんなことで、ある日、とんでもない宿題を頂いてしまった。


「お前、駅弁大学だけど国立大学出だろう。東大出を鼻にかけている課長の鼻っぱしをくじいて来い」というのだ。
「東大出ですか。学部はどこですか」と、戸惑っていると、
「工学部出だよ。分厚い物理学事典を出してきたり、計算尺なんか使っているのに、酒を飲むとからっきしダメで、交際費の予算管理も出来ない課長なんだから・・・」と不満の限りを口にし、ともかくお灸をすえなければいけないと言うのだ。


その話を聞いていると、私も先輩と同じ気持ちになってきて、ある作戦を思いついた。
翌日の朝、私はその先輩に「では、東大出の鼻っぱしを挫いてきます」と言って、朝のお茶を持って課長席の前に立った。


「課長、お早うございます。ちょっと変な質問ですが、数学ではAB=BAですけど、物理ではAB=―BAになる時がありますね。あれって、どんな時でしたっけ?教えていただけますか」というと、気のいい課長は、早速、机の袖引出しから物理学事典を取り出し、記憶の確認をし始めた。手堅い東大出のパターンだ。占めたと思った私は、すかさず「ああ、思い出しました。大学出なのに、こんな簡単なことを聞いて失礼しました」と引き下がってきた。


いたずらは見事に成功した。気のいい課長はしてやられたのである。これで先輩の為に一本取れたとやや英雄気取りで帰ってくると、先輩は私を通路に連れ出し、ことの一部始終を聞きだした後、こんな名言を私に語ったのだ。
「社会人は心に思っても、やっていいことと、やっちゃいけないことがあるんだ」。
それ以後、ドジを続ける度、この言葉を思い出すのだったが、バカな性格はなかなか治らない日々が続くのだった。 (2013.4.1更新)

☆ドジな実習時代に出会った利口な上司


入社時からドジなサラリーマンだった私が、初めて出会った利口な上司の話から始めよう。
私が現在の京王電鉄に入社したのは、昭和38年<1963>の春。杉並区の永福町のバスの営業所で実習をしていた時の出来事だった。


当時、バスの営業所は活気に満ちた職場で、私は清算業務の傍ら車掌さんたちの管理らしい業務も担当していた。女性は127名、男性は深夜乗務要員の21名。皆で148名の若い人たちの職場は日々活気に満ちていて、ムンムンした女性の元気な声が早朝から飛び交った。
その現場で混乱していたのが、女性の新しい制服だった。この年の4月、京王線開通50周年ということで、男性はグレーの背広に、女性は茶色のスーツに変わり、京王グルプのイメージが一新された。


ところが、現場では女性の新しい制服がきわめて不評だった。「今までの紺より膚がきれいに見えない」、「太り気味の人は様にならない」「汚れが目立つ」「安っぽい」ということで、「こんな制服なら、会社を辞めたい」など言い出す車掌さんもいる始末だ。


噂では、バス部門の担当役員が大正のモダンボーイかぶれで、制服を自分の好きな色にしてしまったというのである。その役員は、普段も茶のスーツ以外は着ない人で、アメリカのアイゼンハワー大統領の背広が大のお気に入りだという。そんなことで、現場では「公私混同役員」などと陰口を叩いていた。


そんなある日、実習生が本社に呼ばれた。役員懇談会があるというのだ。出席してみると、研修室の司会者から、新しい制服の感想を求められた。
私は早速、現場の雰囲気をストレートに話しまくった。すると途中で、人事部長から「まあまあ」と止めが入った。「場」を考えない、ストレート過ぎる発言だったのだ。気づいた時はもう遅い。口から出た激しい言葉は戻らない。一瞬にして、私は危険人物のレッテルを張られたような雰囲気になってしまった。


その日、現場に戻ると、本社の出来事はもう職場にも伝わっていた。助役や主任の人たちの目が急に冷たい。居場所を無くした私は、しばらく鬱々とした日々になってしまった。
それから、2か月も過ぎた頃だったろうか。営業所に一台の黒塗りの乗用車が止まって、問題の常務がつかつかと歩いて来た。その瞬間、営業所は一気に緊張した。何があったのだろうと、所長以下整列して出迎えるが、常務は事務所のドアを開けるなり、トレードマークの笑みを浮かべて、「今野君は何処だ」と言って会計室に入ってきた。


所内の人たちは戸惑いオロオロしていると、常務はいつもと変わらぬにこやかな顔で私に近寄り、耳元でささやいた。「今野君が正しかった。僕の間違いだった。紺の制服に戻します」とぺコンと頭を下げ、他には何も言わずに、急ぐように営業所を立ち去っていった。


この一件は、私も戸惑ったが、所内は大騒ぎとなり、「今野、何をやったのだ」と詰問された。しかし、その役員の言葉は、誰にも打ち明けずにダンマリを通した。
ただ、この一件以来、私はこの役員に頭が上がらなくなってしまった。その役員は、シベリヤ抑留時代を飄々として乗り越えてきた人物だとの評判もある慶応ボーイで、その後、私とのエピソードもいくつかあって、その思い出が今でも昨日の出来事のように心に残っている。