心のひと時・万葉集

☆三日月の歌

絢香の歌「三日月」を初めて聞いた。「この消えそうな三日月、つながっているからねって、愛してるからねって、三日月に手をのばした、君に届けこの想い」。その愛の叫びは、あまりにも不安げで切ない。思わず、この歌を歌う若者を優しく抱きしめてあげたいような、嘆きの歌だった。
                       ◇
その曲を聞きながら、ふと、大伴家持の三日月の歌を思った。
●振り放(さ)けて 三日月見れば 一目(ひとめ)見し 人の眉引(まよび)き 思ほゆるかも
大伴家持(⑥‐994)


直訳(岩波)=振り仰いで三日月を見ると、一目見たあの人の引いた眉の形が思い出される。


意訳(今野)=ふと、西の空をふり仰いで三日月を見ると、ただ一度逢っただけで、心に残ったあの人の細い細い描き眉の美しさが思い出されます。


この歌は家持十六歳ごろの歌とされています。三日月に寄せての歌遊びの一首ですが、実に夢の広がる初々しい恋歌です。三日月から自分の夢を次々と広げてゆく家持。


読み手の私たちにも、美しく化粧した初恋の女性の夢を見せてもらえる歌です。
芸能界音痴の私は、絢香のことは何も知らない。でもこの歌の嘆きに心惹かれたのはなぜだろうか。
その理由は分からない。もしかして、老人の私にも、家持のように夢の広がる恋に酔えない若い人たちの時代の嘆きが聞こえているのかもしれない。

(2015年1月13日更新)

☆旅人・憶良の日本(やまと)への思い

巻第五を読むたびに、旅人、憶良の「日本」への思いに胸が熱くなります。この巻は漢文も多く、戦後派には馴染みづらいところもありますが、読み込んでゆくと、それとは反対に日本人としての「やまと」への思いが伝わってきます。まず、旅人の巻頭歌を読んでみましょう。

 

●世の中は 空(むな)しきものと 知るときし いよよますます 悲しかりけり

大伴旅人(⑤‐793)

 

直訳(岩波)=世間は空(くう)であると真に分かった時、いよいよますます悲しい思いがする。


意訳(今野)=妻に死なれ、親しい方の訃報が続き、生きているこの世の中が、むなしいものだと知ったとき、ただただおろおろするばかりで、いよいよ益々悲しい思いが深まるばかりです。


こ の歌の解釈には色々な説がありますから、私のような解釈でよいかどうか気にもなります。でも「むなしい」を「空」という仏教思想とする説には抵抗がありま す。理由は、原文では「空」とはせずに、「牟奈之=むなし」としているからです。旅人と憶良は唐の文芸・文化を、そして仏教思想を学ぶと同時に、それとは 相いれない「やまと言葉」、「やまと歌」の世界に執着した最初の文芸集団のように思えてなりません。


憶良は遣唐使の書記役として唐 に渡り、則天武后に国名を「倭国」ではなく、「日本」に変えさせた随員の一人です。そして、師と仰いだ旅人の妻の死別の悲しみを、「日本挽歌」として長歌 一首、反歌五首を詠んでいます。なぜ、この歌群だけを「挽歌」ではなく、「日本の」と強調した「日本挽歌」としたのでしょう。


ま た、この巻はそれまでの表記とは違う一音一字の万葉仮名で表記しています。まだ、漢字という文字しか持たなかった時代に、漢字の訓読みでは微妙に意味合い が違う表記に抵抗しています。表記としては文字数が少なくて済む便利な訓読み表記に疑問を持ち、「やまと言葉通りの調べ」を表現しようとしているのです。 分かりやすく言えば、便利な漢字の訓読みを採用せず、手間のかかるやまと言葉通りの「万葉仮名の表記」にこだわったのです。
また、旅人はお世話になっている人に、便りと歌を添えて「やまと琴」を贈っていて、歌の伴奏には、日本古来の音曲にこだわっていることが伺えます。


そんなことを思いめぐらすと、この二人は先進的な異文化の世界を学ぶ一方で、日本人の感性になじまない世界についてはかたくなに抵抗し、日本人本来の文芸の世界、日本挽歌の世界、日本人の悲しみの世界を表現したかったように思えてなりません。


二人の作品には唐の文芸世界の先進性にあこがれると同時に、その考えに反抗するかのように、「やまと」への思いを熱くしている二面性が葛藤していたのではないかと思えてなりません。

☆尼寺に招かれて・・・・

巻八に何とも艶っぽい場面の歌があります。秋の雑歌に「故郷(ふるさと)の豊浦(とゆら)寺の尼の私室に宴をした歌三首」という題詞の歌です。豊浦寺は日本最古の尼寺。招かれたのは丹比国人(たぢひのくにひと)という官人です。客人の国人は、政争に巻き込まれ、伊豆に流される直前には従四位下まで昇進された方ですから、かなり有能で魅力的な男性だったことが想像されます。
それにしても、尼寺の尼さんたちが、なぜ平城京の都人を明日香の地に招いたのでしょうか。それは今では分かりません。でも、尼さんの私室(私房)で宴をしたというのは、気になる話です。まず、その歌を見てみましょう。歌は国人の歌が一首、沙弥尼(さみに)等の歌二首になっています。

 

●明日香川 行き廻(み)る岡の 秋萩は 今日降る雨に 散りか過ぎなむ

丹比真人国人(⑧‐1557)

 

直訳(岩波)=明日香川がめぐり流れる岡の秋萩は、今日降る雨で散ってしまうのだろうか。


意訳(今野)=明日香川がめぐり流れるこの岡の秋萩を皆さんと愛でることができてうれしいです。ご一緒できるのもこれが最後ですかね。萩の花も、今日の雨で散ってしまうのでしょうか。

 

●鶉(うづら)鳴く 古(ふ)りにし郷(さと)の 秋萩を 思ふ人どち 相見(あひみ)つるかも

沙弥尼等(⑧‐1558)

 

直訳(岩波)=「鶉鳴く」古びた里の秋萩を、好きな者同士、一緒に見たよ。


意訳(今野)=鶉の鳴くような古びてしまった明日香の里の秋の萩の花を、心が通い合う者同士で愛でることができました。本当に素晴らしいひと時で、忘れられない思い出になりました。

 

●秋萩は 盛り過ぐるを いたづらに かざしに挿(さ)さず 帰りなむとや

沙弥尼等(⑧‐1559)

 

直訳(岩波)=秋萩はみすみす盛りが過ぎてしまうのに、空しく髪に飾らないままに帰ろうとおっしゃるのですか。


意訳(今野)=秋の萩の花は直ぐに盛りを過ぎてしまいます。このまま空しく、髪に花を飾って、お互いの無事を祈らずにお帰りになるのですか。雨などすぐ上がります。もうすこしゆっくりしていってください。


歌はこれだけですから、国人が沙弥尼の勧めでゆっくりしていったのかどうかは分かりませんが、何となくほんわかとした余韻の残る歌のやり取りです。


宴は、歌とともに話が弾んで盛り上がってゆきます。国人はたまたま寺を臨検する立場の役人でこの寺を訪れたのか、送別の挨拶に訪れた宴だったのかは今では分かりません。


でも、心が通い合う男女の素敵な会話が想像できます。
この後、国人は橘奈良麻呂等と藤原仲麻呂の対立に巻き込まれ、天平宝字元年(757)の橘奈良麻呂の変で敗れ伊豆に流されています。また、この変を何とか凌いだ大友家持は、間もなく因幡国へ左遷された時の送別の歌に、この三首に思いをはせて、「秋風の末吹きなびく萩の花ともにかざさず相か別れむ」(⑳‐4515)の歌を残しています。もしかすると、尼寺の宴も、涙をさそう送別の宴だったのかもしれません。

☆あをによし 奈良の都は・・・

万葉集の名歌の中で不思議なのがこの歌です。あたかも奈良の都で作った歌のようですが、実は九州の大宰府での歌なのです。時は天平元年(729)、長屋王事件から間もない3月末の頃、大宰府の長官だった大伴旅人の館での宴の歌なのです。


それなのに、「今盛りなり」と都で歌いあげたような表現になっているのはなぜでしょう。まず、歌の意味を確認しておきましょう。意訳は、奈良大学の上野誠先生の説に学び、共感し、私がイメージを膨らませた解釈です。

 

●あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫(のほ)ふがごとく 今盛りなり
小野老・をののおゆ(③-328)


直訳=「あをによし」奈良の都は咲く花の美しく薫るように、今が真っ盛りである。(岩波文庫)


意訳=(長屋王事件があってご心配だったでしょうが、ご安心ください)平城の都は何事もなかったように平穏で、花が匂い立ち、今まさに真っ盛りです。(役所の仲間たちも、皆さんのご家族の方々も都の春を楽しんでいますよ)
                          ◇
小野老は長屋王が死に追いやられた直後の3月4日に従五位上に昇進しています。昇進した場所は都なのか、大宰府なのか分かりませんが、都で昇叙し、大宰府に来た時の昇進祝の宴の歌だろうと考える説が多数説です。私の勝手な想像では、老は長屋王の政変に藤原方に力を貸し、昇叙したと考えています。


ですから大宰府では宴に集まった官人(役人)たちは小野老の都の最新ニュースに耳を傾け、話が盛り上がったのでしょう。都に残してきた家族たちはどうしているだろうか、仕事仲間たちはどうしているのだろうか、と質問攻めだったことが想像できます。そんな話を受けて、老は「都は平穏ですよ。政界にも、街の人たちにも動揺などはありません。都の人たちは春の花の盛りを楽しむように、皆、新しい世を歓迎しています」と報告し、この歌で締めくくったのではないでしょうか。


「今盛りなり」は花のようでもあり、藤原氏の新しい時代のようにも受け取れます。「今」の意味が深い歌なのだと思います。宴はこの歌を受けて、話題はさらに盛り上がり、都への思いが続きます。そこで、防人(さきもり)担当の大伴四綱は、「大宰府では、藤の花が真っ盛りです。藤の花(藤原氏)が咲き盛っている都を、旅人長官はいかが思われますか?」と、話の話題を長官に振り向けています。


この続きは、万葉集の歌が、みなさんに語りかけるでしょう。ぜひ、万葉集の1ページをお開き下さい。

☆あなたが大好きな万葉歌は?

万葉集を学び始めた方に、「あなたが大好きな歌は?」と尋ねると、額田王と、山上憶良の歌が圧倒的な人気です。中でも、井上靖の小説にもなった、額田王と天武天皇の恋の歌は女性に圧倒的な人気です。1350年ほど前の宮廷社会の恋のドラマにドキドキしてしまうからでしょう。


この歌には、注書きがあります。日本書紀に、「天智天皇の七年(668)年五月五日に、天智天皇が(琵琶湖の対岸の)蒲生野に猟をなさった。その時大海人皇子・諸王・中臣鎌足と群臣がしたがった」と。


この時、天智天皇に仕える皇太子の大海人皇子(おおあまのおうじ)が、これまた天智天皇に仕える額田王に袖を振った三角関係の恋の事件ですから、万葉ファンの想像は膨らむばかりです。


でも、この歌は、もっと違った面白さがあるのです。まず、文字通りの訳と、一語一語にこだわらない意訳をしてみましょう。


●あかねさす 紫(むら)草野(さきの)行き 標(しめ)野(の)行き 野(の)守(もり)は見ずや 君が袖振る

 額田王・ぬかたのおおきみ(①-20)


直訳=紫草が茂る野の御料地を行ったり来たりして、野の番人が見るではありませんか。あなたが私に袖を振るのを。


意訳=紫草が茂る野の御料地で、私の周りを行ったり来たりして、宴の席の踊りのように無様な格好で私に袖を振るので、野の番人までが笑いながら見ていたではありませんか。


●紫(むら)草(さき)の にほへる妹(いも)を 憎(にく)くあらば 人妻ゆゑに 我(あれ)恋ひめやも

 大海人皇子・おおあまのおうじ(①-21)

 

直訳=紫の色のように美しいあなたを憎らしいと思うなら、人妻になっているあなたを、どうしてこんなに恋するのでしょうか。


意訳=お化粧をすれば、まだ美しく化けられるあなたは捨てがたいですね。人妻になっていても騙されて恋してしまいますよ。<宴席の一同は大笑い、勝負は引き分けで終わります>
                        ◇
この歌を、直訳通りの歌ではなく、薬猟を終えた後の宴の座興ではないかと言い出したのは、池田弥三郎先生です。当時はあっと驚くような解釈でしたが、今は、この説が支持されています。

 

意訳はその雰囲気を大切にして、訳してみましたがいかがですか。それにしてもこの歌は、品のある、ユーモアたっぷりの歌ですね。

 

この時の額田王は40歳前後、天武天皇は38歳前後です。唐の王朝文化に追いつこうと、きらびやかな王朝ドラマを繰り広げた近江王朝のエピソードです。
                                 

平成26年5月31日

☆ウキウキしてしまう万葉秀歌

万葉集の中で、なぜか心がウキウキしてしまう歌があります。巻一の54番歌です。


巨勢山(こせやま)の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲(しの)はな 巨勢の春野を

 

坂門人足=さかとのひとたり(①-54)


今野訳=ああ、ここがあの有名な巨勢山のつらつら椿だね。つらつらと見ながら、花が咲き乱れた巨勢の春の野の景色を偲び、行幸の旅を楽しみましょう。
この歌の二句、三句、「つらつら椿 つらつらに」が不思議な力のある言葉です。何か、つやつやとした照り葉の緑と、赤い椿の花の続く道が思い浮かび、すぐにも巨勢の辺りを歩いてみたいという衝動に駆られてしまいます。
「つらつら椿 つらつらに」の調べが、そんな気持ちにしてくれるのです。


巨勢は当時の都の藤原宮から三時間余の葛城山・金剛山のふもとの陽だまりの地です。飛鳥時代は蘇我氏に近い豪族・巨勢氏の本拠地で、今も民家の庭先には山椿の花が目立ちます。この道を大宝元年(701)の九月、皇位を孫の文武天皇に譲られた持統太上天皇が天皇と紀州の牟婁の湯、今の白浜温泉に行幸された時にお供をした坂門人足が作ったのがこの歌です。


九月ですので、花を楽しむことは出来ません。せめて、春の景色を偲びながら、旅を楽しみましょう、と仲間に呼びかけている歌です。
歌は二句、四句で一呼吸「間」を置くと味わい深い歌になります。「つらつら椿」の意味には、多くの説がありますが、伊藤博先生は「花の連なり咲く習性をとらえた語らしい」と考えています。また、歌人の土屋文明は「列なっている椿」としています。私は、どちらの意味もあるような気がします。


今、この万葉の故地を訪ねてみると、もう当時のつらつら椿を彷彿とさせる風景に出合うことはできません。わずかに阿吽寺(あうんじ)の境内に、そして民家の庭先に万葉時代を偲ぶ程度です。ところが何故か、この地は心惹かれる地です。


阿吽時の境内は神武天皇の遥拝の地という伝承がありますし、事実、そんな雰囲気のあるところだからです。神武天皇が実在したのかどうか、直ぐにも信じられない話ですが、紀ノ川にそって大和を目指した天皇家の先祖が、この地で日の出を拝んだ雰囲気は理屈抜きに感じられるところです。
この万葉の故地は、神話時代のロマンの地にも思えました。


*交通=阿吽寺・巨勢寺址は近鉄吉野線・JR和歌山線の吉野口駅から徒歩5~10分。

☆高校で出合った万葉秀歌

高校の時、万葉集に熱心な先生がいました。でも、私は講義の中味は何も覚えていません。ところがクラスメイトは違います。「大伴家持の歌が良かったなあ」といって次の一首を口ずさんだのです。


●春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ 
(春の庭に紅色に照り映えている桃の花が輝く下の道に、ふと立ち現れた乙女よ。大伴家持 巻19‐4139)


そうか。この歌は高校の時に習っていたのか。そう思いましたが、好きになるまでには時間がかかりました。どこか作為的で、色っぽさを強調し過ぎた作風が私には受け入れられなかったのです。


声に出して読んでみても、言葉のつながりの緊迫感とか、力強さが感じられません。貴族趣味的な「なよなよした歌」で、身近に共感できる歌ではありませんでした。でも、今は違います。家持の代表作として、大好きになってしまった一首です。家持のやさしさ、美意識に憬れ始めているからです。


家持は、古代の政争の中で、大伴家の受難を背負い、苦しみ続けた人でした。その中で、人への優しさ、独自の美意識を大切に生きたのがこの人です。この歌には、そんな心を伝える世界を感じさせるものがあります。


「出で立つ」は今まで無かったものがふと現れる意です。前年秋に都から越中にやってきた妻の姿を歌にしているのです。しかし、桃の花が咲いている庭の道で家持を待っている妻の姿を、「妹」とは言わず、「をとめ」という一般名詞にして絵画的な歌に仕上げたのです。


歌は二句切れで読むとその情緒が伝わってきます。そして、「春の苑、桃の花、出で立つをとめ」と、三つの名詞を取り入れた新感覚のリズムを大切にしたい歌です。読めば読むほど、静寂でファンタジーな世界に引き込まれてゆきます。


また、この歌は、次の李(すもも)の歌、「わが園の李の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも=わが庭の李の花だろうか。庭に降った淡雪がまだ、まだらまだらに残っているのだろうか」と合わせて桃李の世界を演出しています。


家持はこの新しい歌の世界を、歌人家持の代表作として強く意識したのでしょう。この歌を巻十九の巻頭の歌とし、この巻の最後には、絶唱の秀歌「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」の歌を納めて、この巻を特別な巻にしています。
「ひとりし思へば」というのは、頼みにする盟友が誰もいない男の孤独感です。なんともいいがたい物憂い寂しさの歌で終わっています。
家持のこの歌を読むと、私はなぜか、北原白秋の歌を思います。処女歌集「桐の花」の巻頭歌「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草の日の入る夕」のモダンな感性とダブってしまうのです。(2013.8.5更新)

☆僕は「憶良が大好き」

「今野さん、僕は憶良が大好きです」
どこかひょうきんなSさんが、ボランティアの雑談タイムの時、私の目を覗き込むような仕草で、次の歌を口ずさんでくれました。


●憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 我(わ)をまつらんそ
(憶良めはそろそろ失礼いたしましょう。家で子供が泣いているでしょうし、その母親も私を待っているでしょうから…。巻3-337)


Sさんは酒も飲んでもいないのに、憶良になりきったような表情で話を続けました。
「高校時代から、憶良にあこがれていました。九州から出てきて勉強もしたのですが、出世も出来ずダメでした。良い父親にもなれませんでした。でも、今度、生まれてきたら、せめて、憶良のような家族思いの父親になってみたいのです」


憶良の人間味がSさんの夢なのかもしれません。
憶良が日本の歴史に初めて名を残したのは大宝元年(701)、42歳の時です。官位も無いのに遣唐使船の少録(二等書記官)に抜擢されたのですから、おそらく卓越した学識と語学力で遣唐使の通訳官として活躍されたのではないでしょうか。


その憶良の生い立ちは分かりませんが、百済系の渡来人説が有力です。晩年は和銅七年(714)、55歳の時に格段の優遇を受ける従五位下まで昇進し、最後は筑前の守(今の福岡県知事役)に上り詰めた方でした。儒教、仏教、道教の教えに精通した有能な役人でしたが、同時に家族と子供を愛し、病、貧しさ、死の課題を深く考え続けた歌人でもありました。


この歌の言葉書きには「宴を罷(や)めし歌」とありますから、楽しげな酒宴を憶良の事情で早退したケースと、皆を代表してユーモアのある中締めをしたケースが考えられます。学説もその二説に分かれるのですが、恐らく後者の笑いを取った中締めではないでしょうか。実にリズムの良い歌で、誰の心にも飛び込んでくる歌です。


この酒席は憶良が主人なのか、酒を愛した上司大伴旅人が主人なのかは分かりませんが、歌の調子から勝手な想像をすると、旅人主宰の宴で「まあまあ、この辺で」と参会者の心を汲んで笑いを取りながら中締めした歌ではないでしょうか。


「今は罷らん」と一呼吸入れて参会者の目を見渡した後、「子泣くらん」と二句目の調べを繰り返し、「それその母も我(わ)を待つらんそ」と笑いを取る人間味とリズムには頭が下がります。素直な心の動きをそのまま親しみやすい言葉にした歌人・山上憶良は私の心を癒してくれる万葉歌人の一人です。(2013.6.1更新)

万葉集に出会って

万葉集を読み込んで、悔いることが一つあります。なぜ、社長になる前に万葉集を読んで置かなかったのだろうかという思いです。日々万葉集を読みながら社長業に取り組んでいたら、もっと社員の気持を深く理解できたのではないか、もっと社員に優しくできたのではないかと悔いるのです。


サラリーマン社長時代は、朝から晩まで仕事に追われることにある種の快感のようなものを感じ、書物と言えば、ドラッカーや、アランを拾い読みするぐらいで、何か、仕事に追われていることが、修行の場のような錯覚をしていました。


会社定年と同時に万葉集を読み出したのには、二つのきっかけがありました。一つは京王電鉄の短歌部の先輩から、「今野君、万葉集だけは読んでほしい」と何度か勧められたことです。そしてもう一つは、とんだ誤解から、地元の奥様方から、万葉集の講師を依頼されてしまったことでした。


国語力の無い私は、古典を読むのは大変なことでした。分かり易い入門書を読んでいる時は楽しかったのですが、人前で解説する内容を求めると、想像を超える困難な日々となりました。
そんな時、埼玉大学に縁ができ、大学の図書館が私の書斎代わりになってくれました。埼玉大学の図書館は旧制浦和高校時代の蔵書に恵まれ、理解しやすい専門書がそろっていました。時間のある時は、何冊もの専門書を並べて、各学者の考え方を比較しながら読み進めることができ、初めて古典の研究の楽しさを知ることが出来ました。特に歌人たちの解説書が多く、歌を解釈する上では大変参考になりました。


万葉集の虜になってしまうと、ビジネス講座の最後の五分で、私の気に入った歌を学生たちに紹介していました。国文学者でない私の講義は分かり易いのでしょうか、なぜか学生達に好評でした。その中での一番の人気だったのが、大伴坂上郎女(おおとものさかのうへのいらつめ)の次の歌です。


●恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛(うつく)しき 言尽(ことつ)くしてよ 長くと思はば


(恋しくて恋しくて、やっと逢えたこの時だけでも、愛しい優しい言葉をかけてください。二人の仲が末長くつづいてほしいとお思いでいらっしゃるのなら。巻四―661)


学生たちには、万葉集を読むまでは、この歌のような女性の気持を理解できなかった自分の恥ずかしさを打ち明けたのですが、それが思わぬ反応だったのです。期末試験の答案用紙の隅に、「万葉集のお話を有難う、『恋ひ恋ひて』の歌が心に残りました」という添え書きが、何十人もいました。
この時、ビジネスの講義が拍手で終わる人気の講座になれたのは、もしかして、万葉集のお蔭だったのではと思ったのでした。

初めての万葉ことば「真幸(まさき)くあらば」

中学3年、昭和29年のことでした。担任のM先生から「真幸(まさき)くあらば」という万葉ことばに出合いました。言葉の意味は分かりませんでしたが、先生はこの言葉を繰り返し、突然涙ぐむような目になるのが忘れられませんでした。


寡黙な先生は、沖縄の旧制中学で教鞭をとられていて、戦争に巻き込まれたのでした。噂では多くの教え子を失い、筏で沖縄から脱出されたという方でしたが、先生はその話をしたことがありませんでした。


それから50年後、万葉集を読み始めた時に、突然、有馬皇子(ありまのみこ)の歌に、昔の思い出が重なりました。

 

●岩代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば またかへりみむ
(岩代の浜の松の枝を引き結んで、幸いにも命があって無事であったなら、また帰って来て、この結び松を見ることができるだろうなあ。巻2-141)


先生の話は艦砲射撃が始まり、先生も学生もお互い死を覚悟して別れた時でしょうか。それとも、米軍の戦車に体当たりするため、学生が蛸壺に散っていった時でしょうか。それとも、闇の中、沖縄を脱出しようとした時でしょうか。「真幸くあらば」(もしも無事であったならば)と眼と眼を交わしたシーンが胸に浮かぶのです。


岩代は和歌山県の白浜温泉から陸路20数キロほど北の熊野街道の要衝の地です。この歌の故地は、現在のJR岩代駅近くの海の崖のようで、謀反の疑いをかけられた有馬皇子はこの松を通り過ぎて、白浜の中大兄皇子のもとへ護送されてゆきます。有馬皇子と中大兄皇子の二人は、天皇になる有力候補です。無実であっても、もはや死を免れない事件に巻き込まれてしまったのです。そんな心境の中で、静かに神に祈ったのがこの挽歌です。


万葉集はいつも千三百年前の古代に誘ってくれると同時に、身近な体験を追想させてくれる不思議な力があります。万葉歌人でもないのに、歌人になったような気分で、歌の心に酔える魅力があります。
岩代の道を歩き、浜松が枝を結んでみたい。この歌はそんな気持ちにさせる歌です。

(2013.5.1更新)

大好きな歌人・志貴(しきの)皇子(みこ)

大好きな万葉歌人は何人もいます。その中の一人、志貴皇子には特別な思いがあります。苦悩の続いた日々を、思慮深く、ダンディーに生き、人柄にもどこか気品を感じさせるからです。


●いはばしる 垂水(たるみ)の上の さわらびの 萌え出(い)づる春に なりにけるかも

 (石の上を走るように落ちてゆく滝のほとりに、蕨が芽を出す春になったものだなあ。巻8-1418)


この歌は、万葉集巻八の巻頭を飾る名歌です。垂水は小さな滝。「早蕨」は神秘的な春の生命力を思わせる蕨の芽で、歓びの気持が一気に広がってゆく歌です。
残念ながら、この歌が何時、何処で詠われたかは、分るすべもありませんが、春の盛りを喜び合った宴席での歌のような気もしますし、蕨狩りの宴席かもしれません。明るく、のびのびと詠った歌です。


時代は千三百年ほど前の飛鳥、奈良時代にさかのぼります。694年、都が飛鳥京から藤原京へ、そして710年、平城京へ遷った時代を生きた人です。天智天皇の第七皇子として生まれましたが、天武天皇の代となり、政治の舞台には登場せずに、歌人として尊敬され、晩年は高円山(たかまどやま)のふもとの白毫寺あたりの離宮でひっそりと余生を送られたようです。


白毫寺は、志貴皇子を偲ぶ萩の名所で有名な寺で、庭には薨去されたときの挽歌の一首が歌碑になっています。「高円の 野辺の秋萩 いたずらに 咲きか散るらむ 見る人なしに(笠金村歌集より・巻2-231)」(口語訳=高円の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散っていることだろう。それを見る主の志貴皇子もいないので)


私はこの寺に来ると、生駒、平城、奈良公園の風景を眺めます。当時の華やかな都の街並をここから遠く眺めていた皇子は何を思い続けたのでしょうか。都は未完成ながら活気に満ち溢れていたに違いありません。薬師寺、東大寺などの大寺もこれからという時でした。天皇家で争った壬申の乱以降、天武天皇の世になった中で、天智系でただ一人自分を失わず生き残った皇子の苦悩はいかばかりだったのでしょうか。


政治の表舞台への思いのすべてを心の奥に仕舞い込んで、ただただ四季の歓び、自然の美しさを歌に詠み続けた皇子は、人格者でもあり、教養人でもあったように思われます。天武系の貴族たちにも尊敬された節がうかがえ、志貴皇子の第六皇子白壁王は光仁天皇として即位します。約百年ぶりに天智天皇系に代わるのです。以後、子孫が広がり、四百年続く平安の代の天皇の祖として、春日宮天皇の追尊(おくりな)を贈られています。


その御陵は白毫寺から二時間ほど山裾に沿ってうねりながら登った裏山にあります。今では山道は舗装された道になっていますが、この道を皇子の葬列が続いたのです。松明のあかりが春の野を焼く野火のように輝き、道行く人の涙をさそったのです。


山道を登りきると、御陵は茶畑の中にありました。東山中(ひがしさんちゅう)という大和高原の盆地です。埋葬地としては二等地に眠る志貴皇子の墓は、小さく目立たぬ御陵でした。
◇    白毫寺 庭より望む 平城(なら)、生駒、夏かげらふに 朱雀門見ゆ
◇    志貴皇子 眠る御陵(みはか)を たずね来て 峠くだれば 旅は終はりぬ(耕作)

 

(2013.4.1更新)