二人で旅に出ようじゃないか

七十歳が近づいて来た夏、銀座のビアホールでの二次会から、二人の旅の話が始まった。
音楽仲間の友人、磯田和一君も二年ほどで七十になる。理由もなく二人で旅に出ようじゃないか、ということになった。
「何処に行こうか」
「何処でもいいじゃないか。青春が戻れば」 
その時は、冗談ぐらいに思って別れたが、僕の心も動き出していた。


              ◇


そんな話があった二週間後、二人は新宿でお茶をした。
簡単な打ち合わせを終えた後、
「この前の話、本気?」
と相棒の目を覗き込むと、
「本気、本気。ホンマの話よ。また、ヨーロッパのぶら旅がしたくて・・・」
二人は二年ほど前、団体旅行で、ザルツブルグからベニスまでの列車の旅を経験している。そんなこともあって話はポンポン進んだ。
気ままな旅だから、航空券と鉄道のユーロ―パスだけを手配して行こうというのである。
それでも二人は若くない。体を気遣った旅をしようということで、念のため健康診断で体を再チェックすることを約束した。


              ◇


「さて、どこの国へ行こうか」
二人は勝手な希望を言ってみたが、結論はチェコになった。理由は二つあった。一つは、語学ができない二人にとって、いっそ言葉の通じない国の方が面白そうだということ、二つ目は直行便でウィーンに入り、体調を確認してから動き出せることだ。
時期は航空券が安くなる九月、やや時間があった僕が、チェコ大使館に出向き、詳しい鉄道路線図と大使館発行の観光案内を手に入れることになった。
そのほかの約束事は四つあった。宿泊は海外旅行ガイド本の「地球の歩き方」掲載のペンションを利用すること、万一、宿が見つからなかった場合は、シニア割引の一等列車を寝台車代わりすること、傷害保険は現地で日本語が通じるものにすること、自宅の連絡は海外からメールができる携帯電話を持参することだった。
そして、いよいよ航空券の購入。二人は安心できる旅行社に同行し、格安航空券の安い日を選び、海外での注意事項を聞いて準備は終わった。後は出発当日、成田のオーストリア航空のカウンターに落合い、それからのことは機中で相談することになった。
この日から、二人は青春モード。さて、この気ままな「チェコのぶら旅は」???
                                      (12/17)

さあ、ウィーンだ

九月十九日十一時二十分、ウィーン行の直行便は、定刻に成田を飛び立った。今日から二週間の旅だ。
ランチが終わり、畿内が落ち着くと、相棒がぼそぼそと話し出した。
「プラハではゆっくりできるの?おもろいといいけどね・・・」
「最初にプラハに行くの?」
「最後がいいかもね。ウィーンに着いたら、どんな気持ちになるかね」
相棒は僕と同じで、きちんとすることが大嫌いらしい。どこか、ケ・セラセラのところがある。二人はウマの合ったペアかもしれない。


                ◇


飛行機は四時過ぎ、ウィーン着いた。二人は「さあ、ウィーンだ」と思った直後、個人旅行の落とし穴があった。僕のバッグが出てこないのだ。
「あれれれれ」。誰にも相談することができない。困り顔になってキョロキョロし始めると、航空会社の制服の女性が話しかけてきた。日本人だ。これには助かった。
「さっそく調べてみます。で、お客様の今夜のホテルは?」
「・・・・・。これからペンションを探すのですが・・・」
「これからペンションを?今日はホテルが満杯ですから、ペンションも難しいかもしれませんが・・・」
親切な女性は、宿泊条件を選ばないことを確認すると、電話をかけまくり、関係先の窓口を駆けずり回り始めた。頭が下がるばかりだ。
「こんなに親切にしてもらっていいのかね」
相棒はくりくりとした目と笑顔で、その女性に感謝しまくってくれる。
それから一時間後、ペンションが決まり、二時間後、荷物が戻ってきた。二人は固い握手を交わすと、その女性も目頭をうるませている。これが「おじさん二人旅」の最初の感動の一ページになった。 


                 ◇


ペンションは交通の便の良い、ウィーンミッテ駅の近くだった、空港からはバス、直通電車が便利だったが、一番地元の人に愛されている各駅停車のSバーンを選んだ。ところがこの列車の切符の買い方が分からない。ホームの自動販売機の前でオロオロしていると、同じ電車に乗る若者が乗車券を買ってくれ、四十がらみのおばさんが、ウィーンミッテまで同行してくれるという。ぶら旅ならではの出合だ、
電車に乗ると、日焼けしたおばさんは、僕らに空席を探してくれ、周りの人が歓迎の視線を送ってくれる。こちらも会釈すると、次は握手攻めだ。
「おじさんのぶら旅も,いいものだね」
二人はウィーンミッテ駅から足取りも軽く、ペンションに向かった。       (12・18)

カフェで、至福なウィーンタイム

駅から二分のペンションは、直ぐに分かった。大通りと横道の角のビルの四階で、ドアを開けると、笑顔の女性が出迎えてくれた。僕らより背の高いドイツ系の美人だ。視線が合うと、やたらと「心配ご無用=ノー・プロブレム」を連発する陽気な人だ。
部屋はシングル二部屋しかなく離れ離れ。部屋を確認し、荷物を置いて、相棒の部屋を訪ねると、彼はもう窓際に座って、スケッチブックを広げていた。
「この教会、おもろいよね。この風景、ウィーンよね」
彼はそう言って、教会の塔のスケッチの手を休めない。僕には知らなかったイラストレーターの顔だった。この旅は楽しくなるかもしれない。


                   ◇


夕暮れの大通りを見下ろしていると、その教会の鐘が鳴りだした。
「ヨーロパって、この音がいいよね。なんだかオペラの序曲みたいと違う?」
鐘の音が終わると、彼は突然スケッチブックを閉じ、夕食に出ようと言い出した。
「散歩がてら、オペラハウスまで歩いて、カフェテリアにでも行こうか」
二人は解放された気持ちで市立公園を横切り、楽友協会までやってくると、そこで一枚のポスターに目が留まった。ブルックナーの交響曲だ。
「ブルックナーは聴いていないなあ、重い感じだからね」
「ウィーンで聴けば、おもろいかも。ウィーンの巨匠だから・・・」
僕もそんな気分になって、チケットを買おうとすると、今夜は一枚しかないという。
「今日はツキがないね。でも、アーとか、手振りだけで何とか話が通じるものだね」
それは、ちょっと自信につながったが、ツキがない日は、何もかもがうまくゆかない。目当てのカフェテリアも、今日は休業だという。千円夕食は見つかるのだろうか。
ガイド本を開いて、探したのは「セルフレストラン」のノルトゼー〈北海〉だった。この店はオペラ劇場にそった大通りなのですぐ分かった。ポテトサラダ、サーモン、エビが美味い店だ。「地球の歩き方は便利だね」と、二人で笑って、また、街歩きとなった。
                 ◇


食事後、シュテファン寺院の夜景を楽しんで、違う道で帰ろうとすると、
「コーヒーはまだだね」と、相棒がそわそわし出した。コーヒー好きの彼の臭覚は鋭い。横路から大通りに出る角で、「此処、此処」と、目を丸くして喜び、足早にカフェのドアをくぐってしまった。ディグラスという店だ。
その店はオールド・ウィーンの趣を残し落ち着いている。こぢんまりとした室内。クラシカルなシャンデリア。ピアノの生演奏。書き物をしている品の良い客。自家製のケーキ。二人にはこの日一番の優雅で至福なウィーンタイムとなった。


                ◇
ところがこの夜、とんでもないトラブルが二人を待っていたのだ。       (12/29)